日清戦争・日露戦争において日本の軍馬が西欧諸国のそれに大きく劣ることを痛感した政府は
内閣直属の馬政局を設置して馬匹改良に着手した
国内における官民の馬産事業を振興するためには競馬を行って優勝劣敗の原則を馬産に導入すると共に
馬券を発売して産馬界に市場の資金を流入させる必要があるとして
馬券の発売を前提とした競馬の開催を内閣に提言した
当時、賭博行為は違法であったが競馬は軍馬育成の国策に適うとして
1905(明38)年:桂太郎内閣は馬券の発売を黙許するとの方針を通達しこれにより馬券発売を伴う競馬の開催が可能となった
しかし地方長官の許可の下に行われていた地方競馬では競馬規程に基づき馬券発売を伴わない競馬が続けられていた
1927年8月、ついに地方競馬法でも払戻に景品券が発行できる勝馬投票が認められ
同年11月、熊本県畜産組合連合会により有明海を一望できる荒尾市宮内出目の地に
その地方競馬規則に基づいた景品券の発行をともなう競馬場(走路:1030m)を建設し
1928(昭3)年:3月2日に第一回荒尾競馬が開催される
自分で賭け、その結果を楽しむ地方競馬の到来に連日多くの観客で賑わった
1939(昭14)年:軍馬資源保護法公布により鍛錬馬競走の馬場として利用される
1946(昭21)年:地方競馬法公布に伴い施行許可を受け荒尾競馬場は地方競馬として再開される
主催は熊本県営競馬と荒尾市の単独開催をを交互に続けるが
1955(昭30)年:荒尾競馬組合を設立し熊本県は名義のみで運営には収支を含め一切関与しない事とする
<昭和54年度・荒尾競馬組合主催・枠番連勝複式投票券>
この当時、観衆のレジャーも多様化し全国の競馬場が続々と赤字転落をしてゆく中
荒尾競馬は経営努力により黒字を計上を保っていたが
1997(平9)年:江戸時代から採掘が行われていた三井三池炭鉱の閉山にともない
それまでの賑わいにも陰りが見え、荒尾競馬場の運営も厳しくなってきた
ついに収益財政として地方財政の貢献は困難との理由で前畑市長により廃止表明がされ
2011(平23)年:荒尾競馬場の長い歴史に幕が下ろされる
熊本県荒尾市宮内出目
|